●金子 邦彦(東京大学)
「複雑系生命科学による表現型進化の普遍的性質の解明」  

 

金子邦彦氏は理論物理学を背景としつつ、個々の要素と全体の間のダイナミックな相互関係を解き明かす「複雑系生命科学」を提唱し、複製、適応、分化、そして進化の過程における普遍的な法則へのアプローチを志向するパイオニア的な研究者として国際的に著名である。金子氏の研究領域は概念提示から理論構築、数理解析から仮説検証までをカバーし、物理学と生物学を統合する広範なものであり、その研究業績は原著論文のみで270件以上、英文和文の総説、解説、著書等を含めると400件以上にのぼる。進化学への貢献は顕著であり、代表的な業績として以下が挙げられる。 (1)表現型の次元圧縮仮説の提唱:定常増殖する系において、高次元の表現型が少数の変数で記述できることを理論的に示し、実験的に検証した (Kaneko et al. 2015 Phys Rev X 5: 011014)。この表現型の次元圧縮は、生物がその進化過程において頑強性を獲得してきたことに起因する、生命システムに普遍的な性質であるという仮説を提唱した (Kaneko & Furusawa 2018 Annu Rev Biophys 47: 273)。 (2)細胞分化の力学系モデルの提唱:発生過程における多様な細胞タイプへの分化が、相互作用する多細胞系において普遍的に生じうることを、力学系モデルを用いて明らかにした。さらに、幹細胞が自発的に振動をする内部状態を持つことを理論的に予測し、実験データにより確認した。発生分化や多細胞化などに通底する進化基盤に洞察を与える研究成果である (Furusawa & Kaneko 2001 J Theor Biol 209: 395; Furusawa & Kaneko 2012 Science 338: 215)。 (3)揺らぎ応答進化理論の構築:統計物理学における揺動応答関係を背景として、遺伝的変異に起因しない変動が大きい表現型ほど進化速度が大きいことを理論的に予測した(Kaneko 2007 PLoS One 2: e434)。さらに大腸菌を用いた進化実験により、この仮説を支持する実証データを提示した (Sato et al. 2003 PNAS 100: 14086)。 (4)発生―進化対応の理論解析:形態形成過程の進化シミュレーションを用い、細胞状態の空間パターンを生み出す発生過程と、そのパターンの進化過程が多くの場合において対応することを見出し、その対応関係が出現するメカニズムを明らかにした (Kohsokabe & Kaneko 2016 J Exp Zool B 326: 61)。 (5)セントラルドグマの理論的導出:すべての生物において遺伝情報を担う分子(核酸)と触媒機能を担う分子(タンパク質)が機能分化していることを、物理学の基本概念「対称性の自発的破れ」により理論的に導出することに成功した (Takeuchi et al. 2017 Nat Commun 8: 250; Takeuchi & Kaneko 2019 Proc R Soc B 286: 20191359)。 (6)人類親族構造の生成メカニズムの解明:計算機上に文化人類学的知見に基づいた社会モデルを構築し、婚姻規則や多様な親族構造がパラメータに依存して自発的に生成されることを示し、人類社会の進化基盤に斬新な洞察を与えた (Itao & Kaneko 2020 PNAS 117: 2378)。 金子氏の研究は理論的・概念的であり、一見すると難解であるが、その独創性は多くの生物学その他の分野の若き学徒を魅きつけてきた。優れた実験系の研究者と積極的に共同プロジェクトを展開し、ERATO金子複雑系生命プロジェクト(2004-2009年)や複雑生命システム動態研究教育拠点(2013-2017年)の代表を努め、現在も新学術領域研究「進化の制約と方向性進化の制約と方向性」の計画班代表として、物理学と生物学を統合して発生や進化の本質的理解をめざす研究展開を主導する活躍を見せている。 数多くの書籍や総説を執筆しているが、なかでも特筆すべきは「生命とは何か-複雑系生命科学へ」(2009年 東京大学出版会)である。理論/モデル/実験から、生命/適応/進化といった現象の本質へと迫り、複雑系生命科学への展望を提示するという、きわめて新規かつ独自な研究分野を体系化した。本書を読んで理論や物理の分野から生物学や進化学に参入した者も少なくないと仄聞する。最近では「普遍生物学:物理に宿る生命、生命の紡ぐ物理」(2019年 東京大学出版会)を上梓した。過去に生じた進化の経緯を理解しようという従来の進化学の枠を超えて、これから何が起こり得て何が起こり得ないかを明らかにするという観点から、新たな進化理論の構築に取り組み、多くの若手を含む研究者を惹きつけ、育成し、新規分野を開拓してきた。 以上のような金子氏の進化学分野における顕著な業績は、日本進化学会学会賞授賞に十分値するものと判断した。